激動の幕末時代を今に伝える
上段の間
当館には、江戸城の無血開城に貢献された皇女和宮の御降嫁、参勤交代など、300余年前の時代の一端にふれることができる『上段の間』が現存します。
皇女和宮
皇女和宮ご降嫁とその生涯
和宮(かずのみや)
弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)生まれ。明治10年(1877年)9月2日没。孝明天皇(明治天皇の父)の異母妹。14歳の時に降嫁し、徳川家茂(徳川幕府第14代将軍)の正室となりました。家茂没後、落飾て静寛院宮と名乗りましたが、大政奉還・江戸城無血開城・徳川家存続のために、家茂の母・天璋院(篤姫)とともに尽力しました。
幕府と朝廷の橋渡しのために嫁ぐ
和宮は5歳の時、兄である孝明天皇の命によって、有栖川宮家の長男・熾仁親王(当時17歳)と婚約します。以来、学問を有栖川宮家で学びました。箱根の阿弥陀寺に和宮の書面が保存されていますが、彼女の文字は実に流麗で美しく書かれています。
和宮は熾仁の父・幟仁親王から習字の手ほどきを受け、のちに熾仁親王より和歌を学びました。
ところが、2人の結婚が翌年に迫った万延元年(1860年)、思いもよらない時代の波が彼女の身に降りかかることになるのです。和宮、14歳の時のことでした。
時は幕末。1853年に黒船が来航して開国を迫りましたが、幕府の大老・井伊直弼は天皇の勅許をいただくことなく、日本が不利となる日米修好通商条約を締結してしまったのです。それに反発して、「天皇に政治を任せ、日本から外国人を追い出そう」とする尊王攘夷が広まりました。孝明天皇は尊皇攘夷のリーダーシップを取っていた水戸藩に「尊皇攘夷の実現をめざして幕府を助け、諸藩と協調して努力せよ」との勅書(戊午の密勅/1858年)を出しました。それに対して井伊直弼は、水戸藩が朝廷と結んで幕府に反逆しようとしていると疑いをかけ、反幕的言動のあった者たちを厳しく処罰してしまったのです(安政の大獄/1856~1857年)。そんな大老・井伊直弼は1860年3月に攘夷派によって暗殺されてしまう(桜田門外の変)のですが。
そんな時代背景のなかですから、幕府は、「公武合体」即ち天皇家と将軍家の間で姻戚関係を作る以外にないとの考えに至ったのでした。
1860年4月、幕府から朝廷へ正式に、徳川第14代将軍家茂の妻として和宮降嫁の願いが出されました。有栖川宮家への輿入も年内にと聞かされていた和宮ですから、兄の孝明天皇からこの話を告げられて大変な衝撃を受け、拒絶してしまいます。天皇も妹宮の胸の内を思いやったのでしょう、この結婚には反対の旨を幕府に伝えました。
しかし幕府は諦めません。有栖川家に婚約を辞退させるなど、何度となく圧力をかけて来のですた。天皇は幕府に対して「通商条約の破棄と攘夷」を求めていましたが、幕府から「7、8年もしくは10年以内に通商条約を破棄する」と返事が返ってきたため、とうとう和宮の説得へと踏み切ることになってしまったのです。
「和宮が嫁に行かないのなら仕方がない。去年生まれたばかりの私の娘・壽萬宮を江戸へ嫁がせよう。嬰児では困ると幕府が言うなら、私は責任をとって退位する」と、天皇は関白九条尚忠に手紙を宛てて信条を述べました。この手紙の写しが和宮の所へ届けられます。「壽萬宮を江戸へ」のあとに「一人娘のことで、少々寂しくはあるが」と天皇の気持ちが添えられている書面を見た和宮は胸を衝かれ、私がわがままを通していると、まだ乳飲み子の壽萬宮が江戸へ送られてしまう。そればかりか、話がこじれれば天皇は退位するとおっしゃっておられる…。和宮は血を吐く思いで「承知」したのです。
皇室という尊い血筋と環境で育った和宮にとって、将軍とはいっても武家という野蛮にも思えるところへ嫁ぐのは本当に嫌で嫌でしかたありません。自ら宮廷へ出向いて、「日本のためですから、嫁ぐのは仕方ありません。でも、江戸に行ったからといって生活習慣を変えるのは嫌です」と、いろいろな条件を出しました。そして、身の回りの世話人は御所から連れて行くこと、大奥に入っても万事は御所の流儀を守ること、法事の度に実家に帰ること、御用の際には伯父・橋本実麗を下向させることなどを、幕府に認めさせました。
京都から江戸へ 25日間の花嫁行列
そして翌1861年10月20日、和宮の行列は中山道を通って江戸に向かいました。134里を25日間をかけての旅です。宿場町の通過に前後4日間、行列の長さは50kmにも及ぶ大行列で、道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢20万人にもなったといいます。また、降嫁する和宮を奪還しようと、過激な攘夷派が行列を襲撃するという噂が広がったため、家茂は御輿の警護に12藩、沿道警護に29藩を動員し、幕府の威信をかけて安全の確保を目指しました。また、娘3人を、和宮と同じ輿を造って合計4つの御輿で同行させてもいるのです。そして、京都以外の土地を知らない和宮の御心を慰めようと、名勝を通る時などは御輿を止めて添番が説明したりしました。和宮はその時、次の句を詠んでいます。大好きでありながら別れざるを得なかった熾仁親王の面影を想い、涙を流したに違いありません。
落ちて行く身を知りながら もみぢばの 人なつかしくこがれこそすれ
(紅葉は風に舞って落ちてゆく。不運を嘆くのでなく、相手の心に打ち解け、いちずに恋慕い尽してゆかねばと思う)
惜しまじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも
(天皇と、民衆のためならば、我が身は武蔵野の露のように、はかなく消えてもかまわない)
11月5日、塩尻で昼食の後、和宮御一行は下諏訪宿に到着しました。和宮は当時本陣の一部であった『上段の間』に宿泊します。この時、提供されたといわれる料理は一汁四菜でした。
では、中仙道六十九次の宿場町のなかで唯一温泉地であった下ノ諏訪宿(現/下諏訪町)でどのような一夜を過ごされたのでしょうか。
1843年『中仙道宿村大概帳』によりますと、下ノ諏訪宿内家数は315軒1345名、うち本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠40軒であったと記されています。
そして和宮は11月15日、25日の旅程を終えて無事に江戸城に入ったのです。
1862年2月11日、江戸城内で14代将軍・家茂と和宮の祝言が盛大にとり行われました。家茂、和宮ともに15歳でした。
京風とは全く違う、関東の荒々しい若者を想像していた和宮は、家茂が眉目律々しい気品を備えた初々しい青年であったのでとても安堵したといいます。時代に翻弄され、数奇な運命を与えられた和宮にとって唯一の救いは、夫・家茂がとても思いやりのある立派な青年であったことだったと言ってもいいでしょう。家茂が井伊直弼らの策謀にかつがれ、将軍の座についたのは、わずか12歳のとき。しかし、聡明な家茂はよく自分の置かれた立場を理解し、自らの能力の限度いっぱいを以て難しい政局に対処してきました。自分自身、攻略の犠牲となってはるばる関東に送られてきた和宮は、幕府方・朝廷方と立場こそ違うけれど、同じ政治という怪物に苦しめられているこの同年代の夫に深い情を抱くことになるのです。一方、家茂は、か弱い少女の身で馴れない異郷へ送られてきた花嫁に、青年らしく純粋ないたわりを示しました。家茂は生涯にわたって、側室をひとりもおかなかったのです。和宮もまた婦道をわきまえ、至らざる点がなかったといいます。
まことに残念ではありますが、苦心の公武合体策は実らず、倒幕運動は激しさを増していきます。和宮は兄・孝明天皇と夫・家茂の仲をとりもって、結婚の翌年3月に家茂は上洛して天皇に謁見します。将軍の上洛は3代・家光以来229年ぶりでした。そして、天皇は家茂に対して、結婚の時の約束だった攘夷の決行を迫ります。しかして家茂は攘夷の期限を1863年5月10日と決定します。なんと、20日後のことでした。
そして5月 10日、長州藩は下関海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を加え、その後さらに列国軍艦にも攻撃を加えました。これに対して、翌年8月にはイギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊が長州藩に報復攻撃をします。これによって、長州藩は敗北してしまうのです(下関事件)。
一方、和宮は必死に攘夷を望みました。そこには、日本が天下泰平の道に進めるようにと、民衆のためという純粋な思いがあったからです。
でも、家茂は1866年、大軍を率いて上洛した第2次長州征伐の途上、大坂城で病に倒れてしまいました。
1865年9月、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た4ヶ国は条約の勅許を天皇に要求しました。天皇も事態の深刻さを悟って、条約の勅許を出すことにします。でも、この勅許によって、和宮が降嫁した意味がなくなってしまったのです。
病に倒れた家茂を和宮は心配して、イギリス船で医者を送ったり、夜具や衣類、見舞いの菓子などを届けさせたりしました。しかしその甲斐もなく、家茂は1866年 7月、20年の短い生涯を大阪城で終えてしまいます。
のちに家茂の遺骸は江戸へ帰りますが、そのとき、和宮へ西陣織物が届けられました。これは、征長出立の際に「土産は何がよいか」と家茂が尋ねたのに対し、「西陣織を」と和宮がねだったたものだったのです。形見となってしまった西陣織を抱きしめた和宮は、突っ伏して泣きました。
空蝉の唐織ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ
(どんなに美しい織物も、あなたがいなければ虚しいものです)
三瀬川 世にしがらみの なかりせば 君諸共に 渡たらしものを
(この世にしがらみがなかったならば、あなたと共に三途の川を渡るに違いないものを)
そのときに詠んだ歌から、和宮も家茂を大切に思っていたことが伝わってきます。
家茂の死後、和宮は江戸城に留まって、徳川の人間として生きていくことを決意。その年の12月に剃髪して静観院宮と名乗りました。
江戸城無血開城に尽力
和宮が徳川家に嫁いだ目的である「公武合体」は叶うことなく、家茂の死後も倒幕の動きは激しくなってきました。そして1867年10月14日、家茂の後を継いだ将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返還(大政奉還)し、260余年にわたった徳川幕府の幕は閉じるのです。
ところが、薩長両藩と手を結んだ朝廷内の討幕派は1868年12月に王政復古の大号令を発し、旧弊を廃して官制を一新、慶喜には辞官と領地の返上を求めました。情勢は風雲急を告げ、1868年1月に鳥羽伏見の戦いが勃発。薩長中心の反幕府軍は錦の御旗を掲げて官軍となり、朝廷の敵となった幕府の軍勢を打ち破ります。徳川家を取り潰そうと、官軍は江戸へ向け進軍を開始しました。なんと、この徳川追討軍の総司令官は、和宮のかつての婚約者・有栖川熾仁親王でした。
徳川家を救うため、和宮と姑の天璋院(篤姫)が動きます。
このままでは徳川家の命運は尽き、江戸の町は火の海になってしまうと考えた和宮は、1月20日幕府と天皇家をとりもつため、朝廷に手紙を書きました。「徳川家が後世にまで、朝敵の汚名を残す事は、私にとって真に残念なことです。何とぞ私へのお慈悲とお思いになり、徳川家をお取りつぶしにならないよう、身命に代えてお願い致します」と。
天皇家からの返事は、「寛大な措置はむずかしい。必ずや徳川家の討伐が行なわれるだろう」と厳しいもの。3月に入ると、官軍は江戸からわずかの所まで進軍を続けており、江戸総攻撃は3月15日と決められました。混乱する江戸の様子を耳にした和宮は、官軍の指揮官・有栖川熾仁親王に手紙を送ります。「なにとぞ今しばらく、江戸への進軍をご猶予下さい」と。
一方その頃、幕府の強硬派は、官軍への徹底交戦を唱えて、一戦交える機会を窺っていたのでした。せっかくの和平の機会を逸してはならないと、和宮は幕府強硬派の前に立ちはだかり、将軍・慶喜に訴えました。「ただただ神君家康公以来の徳川の家名が立つよう、謹慎を続けるように。抵抗さえしなければ、徳川家が滅びることはないのです」と。
こうして、和宮は朝廷や追討軍の有栖川熾仁親王に対して徳川家存続と慶喜の助命を嘆願しました。また、薩摩藩島津家の出である天璋院は敵方の総大将である西郷隆盛に手紙を書きました。
こうした働きかけによるところが大きかったのでしょうか、官軍の西郷隆盛と幕府の勝海舟による和平会談が行われ、江戸城総攻撃の中止の決定がなされ、1868年5月3日(旧暦 慶応4年4月11日)、江戸城の無血開城が果たされました。江戸の町も戦火から救われたのです。それは亡き夫・家茂のために、和平に奔走した和宮の想いが、新たな時代の扉を開いた瞬間だったと言っても過言ではないでしょう。
そして朝廷は慶喜の助命と徳川家存続を決定します。
その後、和宮は清水邸(現・東京都千代田区北の丸公園)へ、天璋院は一橋邸(現・東京都千代田区大手町)へ江戸城から移りました。そして和宮は京都に5年間帰住した後、既に東京に移っていた明治天皇の勧めによって、東京移住を決心、1874年(明治7年)7月に麻布市兵衛町(現・港区六本木1丁目)の御屋敷に入りました。和宮はここで3年有余を過ごし、皇族や天璋院、徳川家と幅広く交流しています。
そんな和宮ですが、31歳の頃より脚気を患い、1877年(明治10年)8月から箱根塔之沢の元湯に静養のため滞在しています。一時は快復され、歌会を開くほどになったのですが、俄に衝心(脚気の発作)が起こり、明治10年(1877年)9月2日、この地で逝去されました。享年32でした。
和宮は「家茂の側に葬ってほしい」という遺言を残しており、東京の芝・増上寺で眠る家茂の隣に葬られました。それまでは将軍の墓所と、正室を含む将軍の女性の墓所が、同じ場所に並ぶことはなかったそうです。
(参考文献 阿弥陀寺 水野賢世氏 ほか) ※日付は明治4年までは旧暦